朗読 銀河鉄道の夜/宮沢賢治 第一夜

 朗読というジャンルが昔から苦手だ。小学校での音読も得意だったけど好きではなかった。感情を込めて読めというあれに納得がいかなかったんだと思う。なんでだろう。わりとハナから褒められるように読めた分、なおさら懐疑的になったのかもしれない。



―前作の時のCINRAのインタビューで、「聴いてる人が楽しみたいように聴こえた方がいいから、そのためには、気持ちを込めて歌うことが大事なんじゃなくて、正しいピッチと正しいブレスで歌えばいいと思う」ということをおっしゃってましたよね? その部分にも変化はありますか? 

佐藤:いや、変わんないですね。前回言ったことと全く同じで、あくまでさっき言った「聴いてて気持ちよくなればいい」っていうのは…なんて言うんですかね…普通にやるだけです(笑)。

佐野:結局、そうですね(笑)。 

佐藤:同じことだと思うんです。励ましのメッセージを歌詞に入れるとか、感情を込めて歌うとか、そういうことではなくて、そういう風に聴こえるような録音にするためには、リズムとかアレンジをきちんと詰めるというか…



 憑依するという表現(?)があるけど、あれは多分、感情的な何かにではなく純粋な行為そのものに没入したときに生まれる恐ろしさじゃないだろうか。朗読に対するアンチな気持ちもそこからきてるのかなと思った。映画とか舞台は大好きで、やっぱり活字は意味を持った言葉である以前に活字だという感覚が強いのかもしれない。音楽はその間にあるような気がする。

 活字は表現様式の中で突出して概念に近いと思う。ほとんど身体がない。視覚で認識する、頭の中で音声になる、読み進めていくのに時間を使うけど一方通行ではない。物質的な拠り所がほんと、フォントくらいしかない。文字には大小もあるけど、一つの読み物の中で文字の大きさが変わることは少ない。あ、ブログならあるか。うーん。でもやっぱり世にある組まれた活字の多くがそうでないことは確かだと思う。

 閑話休題、でも声を出すのは気持ちがいい。できることなら活字をこの身体で味わいたい。文字を打つ、読む以上に彼の無身体性に身を任せたかった。というわけで、いやよいやよも好きのうちで、朗読をしました。言ってることもやってることも矛盾がめちゃくちゃにある気がするけど、こういうことを今考えています。

chani

tanka/track より自由に発声するために

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